筑後取材の後の「磐井の乱」

磐井の乱は、継体天皇の時代527年と言われているが、けっこうヤマト政権が盤石とは言えない、かなり動揺していたと思われる時代の内乱になる。

 

この時代のことだから筑紫君は怨霊になったんだろうと思うわけで、そう考えてみると、古代の九州の北半分、特に八女、久留米から大分にかけてが俄然面白く見えてくる。もしかすると、近くにある久留米の筑後一の宮、高良大社は、磐井の怨霊を鎮めるための神社だったりしないだろうか……。こんな想像をするだけでワクワクしてくる。

 

高良大社の神様というのが、由来を調べてみると、高良山に結界を結んで、旧来の神である高木神=高御産巣日神を追い出して鎮座したと書かれている。この高木神を奉じていたのが磐井の一族、つまり筑紫一族とすると、高良大社=磐井の怨霊を封じ込める場所という想像はあながち外れてないんじゃないだろうか。岩戸山古墳の由来を知り、あらためて高良大社との位置関係を見てみると、磐井の怨霊を封じ込めたと考えるとしっくり来る。

 

こうなると、久留米から北の太宰府が気になってくる。八女→久留米→太宰府という怨霊封じ込めのラインが浮き上がってくるからだ。磐井の乱は527年で、菅原道真が太宰府に左遷されたのが901年、そして怨霊になったとされるのが930年頃のこと。この時はまだ400年ほどしか経っていないので、磐井の乱のことが語り継がれていた可能性がある。

 

磐井は、豊前に敗走して福岡大分県境の求菩提山、犬ヶ岳あたりで死んだという説があるようだ。その場合は英彦山、日田といったところも逃走ルートになるかもしれない。こう考えると、筑後から国東半島にかけても気になってくる。