武器としての「資本論」

本書でショックを受けたのは、「寅さんがわからない」という人が増えているというくだりだ(寅さんについては、西口想さんのサイトからの引用)。寅さんがわからないのは「スキルがある人は稼げて価値がある。そうでなければクズ」だと思う人が増えているという。だからか、強いものや金持ちに反発したフーテンの寅さんをバッサリ切り捨てる。著者は資本の論理に労働者であるわれわれが屈しているからだと、資本論のロジックに沿って解説する。恐ろしいのは、「スキル・能力のない人は労働者としての価値がない」という資本の論理に同調し、自ら進んで資本の奴隷になる人が増えていること。スキルアップや能力を高めることに価値を感じているのは自然なことだと思うが、価値を感じる根源に資本の論理の浸透があるとするとちょっと怖い。

 

今は「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値がある」という考えが横行しようとしているのかもしれない。資本の実体が少々見えないのだが、ざっくり言えば政府と企業を支配する富豪か。彼らは、一貫して労働者と労働価値のダンピングを行っていると著者は言う。確かに、あからさまな賃下げ、脱正規化、アウトソーシング、国外生産、外国人労働者の推進など、われわれの価値を下げる施策を取り続けている。「民営化」「規制緩和」「競争原理」「選択と集中」「アウトソーシング」「グローバル化」といったキーワードを何の疑問もなく振りかざす連中には要注意だ。

 

あとはITとAI。個人的にはその力を借りて仕事をしてきたし、PCをツールとして使いこなすことがいいことだと信じてきた。今もその恩恵にあずかっているので微妙なところだが、現代の資本論的なアプローチで考え直してみたいと思う。確かに、PCが入って仕事ははかどるようになったが、労働者としてハッピーになったかというとどうもそうではない。マルクスは「機械の導入」について論考して、資本のためにはなるが労働者のためにはならないことをとうの昔に指摘している。今回の新型コロナウイルスをきっかけに進みそうなオンライン在宅勤務も考えて見るとヤバいかもしれない(昔ながらの意味で)。これから、パーソナルな時間を会社のために使えという罠が巧妙に入り込んでくる怖れがある。本当に必要な仕事の時間とそれ以外の時間の境界が曖昧になる。何のチェックもなしに受け入れてしまうと、われわれが奴隷化する一歩となってしまう。

 

とはいえ、ここまでIT化が進んだ時代で、今後ITもAIもIoTも無視して働くことも生きることも難しいだろう。では、どうするか?

 

これが本書が提出しているお題だ。その答えとして著者は、人間が本源的に持つ価値を実感せよと説く。具体的には「食の喜びから見直すべきだ」という。人の根源的な価値を感じる感性を大事にするべきだということだ。

 

できるならば、僕は具体策として農への回帰を付け加えたい。もし多くの人たちが狭いながらも自分の畑(田んぼでもいいが、なかなか難しい)を持つことが普通の世の中になればどうだろうか。

 

誰もが毎朝、自分の畑から野菜を収穫してきて、それが食卓に上る。Farm to Tableがもたらす豊かな暮らしがあれば、その環境で暮らす労働者は資本からある日突然「クビ!」と言われても今より困ることはない。生殺与奪の全権を企業側に取られていないからだ。そうでない会社に移ればいいだけのこと。扶養の問題がなければ農に専念したっていい。人間、最後は食べ物(最後の最後は排泄というものが残る)。もちろん誰もが畑を持つことはできないわけだが、こうした風潮・運動が広がっていけば、人としての本源的な喜び、価値を実感する人が増えるのではないか。

 

資本側から仕掛けられている階級闘争に抗える人が増える。古き良き時代はもう戻らないなら、新しい良き時代を作るしかない。われわれが、マルクスが言うところの「よるべなき労働者」(つまり無産者)へと貶められないためには、人が本来持つ価値を大切に思い、そのことに気づけるように日々の喜び、食べること、生きることの喜び、そして大地と太陽の恵みを感じられるようにすること。そういうことではないか。著者の主張にほぼ全面的に賛成する。